『インドの指先』

 

 

 

 汗の空港

 

 

 

クリーム色のリノリウムの床に、汗が落ちる。プラスティックの椅子に座り、落ちる汗を数える僕の背中は丸い。髪の生え際から額を滑り、眉に引っ掛かり球を成して落ちる。または左右のこめかみから頬を通り、あごの先で交わり落ちる。

 

 心臓が必死で訴える泣き言が耳元で聞こえる。荒い息を吐く合間に数時間前に食べた機内食が騒ぎ出す。魚の生臭さと、ヨーグルトの酸味が喉元までせり上がって来る。嘔吐の予感を頬の内側を噛んで抑える。

 

先ほどまで数人しかいなかった空港のロビーに、1人また1人と旅行者がやって来る。彼らは椅子にゆったり腰かけると、鞄から取り出した本を読んだり、音楽を聴いたり、連れ合いと話をして待ち時間を過ごしている。インターバル中のボクサーのように死に物狂いで体調を整えようとしている者は僕だけだった。

 

 

 

1時間ほど前、乗り継ぎのためバンコクのスワンナプーム空港に降りた僕は、知り合いの夫婦と歩きながら話をしていた。ネパールへ向かう彼らと偶然にも同じ飛行機に乗り合わせていたのだ。自家焙煎の喫茶店を営む彼らは、毎年ネパールで1か月間コーヒー農園でコーヒー栽培に携わっている筋金入りのコーヒー職人だ。僕の喫茶店にも彼らのコーヒーを卸してもらっている。

 

彼らの乗り換え便の搭乗口に着いたところで、あいさつを交わし僕は彼らと別れた。さて、ここから先しばらくの間は日本語での会話は無いだろうと思いながら、乗継便の場所と時刻を電光掲示板で確認した。これから僕の乗る便は午前7時だった。ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し時間を確認する。午前650分だった。あと10分しかない。馬鹿な! 

 

一気に冷たくなった血液をアドレナリンで沸騰させて僕は走った。

 

 広い。空港はとてつもなく広く、小さなテーマパークほどの敷地面積がある。それに加えて僕は重度の方向音痴だ。息が上がるほど走ったところで空港職員に搭乗口の場所を訊いた。職員は今僕が走ってきた方角を指さした。我ながら何を根拠に走り出したのだろうかと思うけれども、方向音痴を37年やっていればこれぐらい挨拶代わりだ。

 

とは言え、時間がない。もうこれ以上迷うわけにはいかない僕は、走る先に見つけた空港職員に片っ端から場所を訊きながら走った。片言の英語同士でコミュニケーションに時間がかかったが、必要経費だ。

 

リズムの悪い荒れた呼吸と軽さを全く感じさせない足音。走るたびにリュックサックの揺れるガシャガシャという音。普段から運動とは無縁の男。とっくに体力は底をついている。そして、まず間違いなく午前7時は過ぎている。それでも止まるわけにはいかない。

 

口の端から始まった乾燥は既に僕の口の中を犯し尽くしていた。荒い吐息は不出来なメロディーのようで、耳障りだった。人を避けながら走る。目の前を歩く長身の男。黄色いチェックのシャツにブルージーンズ、頭に朱色のターバン。僕は追い抜きざまに振り返る。尽きかけている体力事情を好奇心が上回った。堀の深い褐色の顔に、黒く固そうな口髭を手に負えないほど生やしていた。嬉しくなるほどインド人だった。

 

ようやく搭乗口のサインが見えた。もつれる足で階段を降り、待合所に降りた。予想はできていたが、誰一人そこにはいなかった。飛行場へと続く階段を下りてみたがそこも無人。アドレナリンのすっかり引いた体は油のしみた粘土のように重たかった。途方に暮れながら階段を上りベンチへと腰を下ろした。「ベチャッ」という書き文字と同時に、背中と尻に汗の気持ち悪さを感じた。

 

「インドは不思議な国でね、インドに認められないものは不思議な力で入国すらさせてもらえないんだよ」

 

長期で店を休むことを伝えた時に常連客が話してくれた言葉を思い出した。

 

「マジかよ。つまり俺はインドに認めてもらえなかったってことか」

 

泣こうがわめこうが通らぬものは通らない。せっかく長期で休みを取ったのだ、旅先をタイに変えよう。体力が回復したら行動しよう。それにタイは行きたい国の一つだったではないか。楽しんでやろうと決め顔を上げると先ほど追い抜いたインド人がこちらに歩いてくるのが見えた。おいおい、もしかして君も乗り遅れた口か? 同じ境遇の者がいる事への変な安心感が心身を軽くする。僕はインド人の元へと歩み寄り挨拶を交わした。

 

「インドへ行くのですか?」

 

「ニューデリーだ」と彼は無表情で言った。

 

「あなたが乗る便は午前7時の?」

 

彼は低い声でそうだと答えた。相変わらずの無表情だった。

 

「僕もです。ただ残念ながら、もう飛行機は出ました」

 

「なに?」

 

 目を見開いた彼に話す間を与えず僕は喋った。

 

「信じられない気持ちは分かる。でも事実なんだ。見てくれよ誰もいないだろ? ここに、今。そう。僕たちは乗り遅れたんだよ」

 

 片言の英語と渾身のジェスチャーを交えながら僕は言った。

 

「冗談だろ?」

 

 インド人の眉間に深いしわが寄る。なかなかの迫力だったが、僕は続けた。「冗談にできるならしたいよ。でも見てくれよ俺の目を、この汗を。嘘や冗談を言っていないことが分かるはずだ。そうだろ? 違うか?」

 

汗にまみれた顔で一生懸命身振り手振りで話す僕を見て、インド人の顔に困惑の表情が浮かぶ。「えぇ……」そして親指の爪を噛んだ。「いや、そんなはずは……」

 

「どうやら俺がインドに認められなかったみたいで……。申し訳ないけど……」

 

「あの、すみません。飛行機の話をされていますが」

 

 僕たちの間に女性が割って入ってきた。黒髪を後ろでひっつめ、眼鏡をかけた知的な顔立ちの女性だった。デニムジャケットの青と、褐色の肌がよく合っていた。とても綺麗な英語で彼女は言った。

 

「あなたたちが乗る便はこれですか?」

 

 差し出された搭乗券の便名を指さされた僕たちはその通りだと答えた。

 

「それならまだ出ていないですよ」

 

「だろ、そうだろ。まだ時間じゃないよな?」髭のインド人が太く大きな声で言った。

 

 あれ? おかしいな。僕達を取り巻く空気感。脳内に突如生じる空白。ヒヤリとする背中。とても馴染みがある。これは間抜けが背中に触れた時のものだ。

 

あれだけ僕を突き動かしていたアドレナリンが無責任に引いて行く。遠くでタイ語のアナウンスが聞こえた。さらりと冷たい汗が流れる。

 

「ほらまだ時間じゃないでしょ」

 

 彼女はとても優しい声でスマートフォンの時間を見せてくれた。午前5時過ぎと表示されている画面を見た僕は一瞬ですべてを理解してしまった。日本とタイの時差は2時間。飛行機に乗る時に機内モードにしたままだった僕のスマートフォンは当然時差を修正されないまま日本時間を表示していた。それを現地時間と勘違いして取り乱したと言う訳だ。なるほど!

 

 僕は汗で取り出しにくくなたスマートフォンをポケットから出して二人に見せ、そして今気が付いた様に「ああ、機内モードね」と言い、額に手のひらを当てた。女性はにっこり微笑んでベンチへと引き返して行った。手のひらの間からインド人を見る。無表情に戻った彼はじっと僕を見下ろしている。

 

「ごめんごめんごめん。本当に申し訳ない」

 

 手を合わせて詫びる僕に軽く手を挙げて彼もベンチへと向かって行った。僕は彼らから離れたところへ移動して腰を下ろした。

 

やってしまった。おそらく死ぬまで付き合っていかなくてはならないもう一つの僕の持病。不治性の間抜けが発現したのだ。僕と間抜けは分かち難い存在なのだ。間抜けが発現すると、僕は反省して距離をとる。この距離は反省の深さに比例する。ただ、いくら距離を開けても間抜けは一定の速度で僕に向かって近づいてくる。そして追い付いた時僕の背中にそっと触れる。その時再び間抜けは発現するのだ。

 

僕はうつむきながら粘りつくような脂汗を手の甲で拭った。

 

 

 

僕の汗が引く頃、ロビーは人で満ちていた。所々に白人のバックパッカーが見える。割合にして数パーセント。それ以外のほとんどは褐色、もしくは黒に近い肌の色で占められていた。顔の中央に大きくギョロリとした一対の眼が白い。男性は豊かな黒い髭を蓄え、女性は色鮮やかな民族衣装を身にまとっている。

 

バンコクの国際空港にて、ニューデリー行きの便を待つ。僕はリュックサックを両足の間にしまった。様々な国の言葉と彼らの体臭が僕にいよいよだと告げる。みぞおちまで降りてきた魂に真っ赤な火が入る。

 

 

 

 混沌のニューデリー

 

 

 

 インディラ・ガンディー空港は灰色がかった霧に包まれていた。旅客機は音を立てて分厚い霧を裂きながら高度を下げていった。僕はシートから背中を離し手のひらを太ももの上にそっと置いた。そして長くゆっくりと息を吐いた。喉が大きく鳴った。

 

 ランディングギアが滑走路を捕まえた。

 

インドだ!

 

 接地の衝撃でさざめく機内で、僕の心の中には土砂降りの雨が降っていた。それはひび割れた赤土の上に連日の雨乞いの末に降った雨だった。

 

一般的に37歳の男の心は湿っている。若い頃のように思う存分好きな時に好きなだけ感情を発散できなくなるからだ。結果として行き場を失った感情が結露を起こして心を湿らせていく。雨に濡れた焚き木の様に。だから滅多に火なんて付かない。

 

だが今目の前に広がる冒険を前に発生した圧倒的火勢は、湿った僕の心を一瞬にして真っ赤に燃やした。

 

 

 

1月末のインドは、スウェットシャツの上に薄いダウンジャケットでちょうど良かった。

 

入国審査官は両手を突き上げて体を伸ばし大きくあくびをした。それから順番を待っていた僕を手招きした。彼は僕のパスポートをぺらぺらめくり入国を許可してくれた。僕は礼を言い、インドの国鳥である孔雀がデザインされた彼のネクタイを褒めた。

 

ベルトコンベアから流れてきた荷物を受け取ると両替所へ行き列に並んだ。僕の前に並んでいた3人の男たちが窓口で何やら揉めている。ヒヤリングの練習を兼ねて彼らの話を聞こうと耳を傾ける。かろうじて聞き取れた単語を繋げた結果もう少し良いレートで取引してくれと頼んでいるようだった。粘る彼らの様子を見ていると、リュックサックに圧を感じた。一気にスイッチが入る。振り向くとイライラしたおじさんが何かを言う。英語ではないので分からないが身振り手振りから察するに「早く前に行けよ!」と言っているようだった。しかし窓口には3人組がまだいる。彼らを指さしながら言い返すとおじさんは激しい口調で3人組に何事かを言う。3人組のうちの一人が振り返って短く何かを言い返す。おじさんはまた僕のリュックサックをぐいぐい押しながら早く前に行けよと言う。僕は3人組を指さして「まだいるでしょ!」と日本語で言い返す。3人組が窓口に並んでからほんの数分しか経っていないじゃないか。

 

渋々3人組が立ち去った。進もうとした僕の右横を後ろのおじさんが突破しようとしてくる。やらせん! 絶対にやらせはせん! 僕は大きく右前に進み、迫りくるおじさんの進路をふさいだ。彼は「くそ!」みたいなことを言い僕の背中を押した。僕は押された勢いのまま窓口に取り付いた。

 

1万円をインドのルピーへと両替した僕は案内標識を見ながらメトロへと向かった。大体1ルピーが1.7円ぐらいのレートだった。メトロの乗り方を訊き、エアポートラインという線に乗った。メトロはとても近未来的で綺麗だった。ただ床が砂でじゃりじゃりしていてインドを感じさせた。

 

僕は快適なメトロに揺られてニューデリー駅へたどり着いた。両替所でひと悶着あったとはいえ空港を出てメトロを探して乗り、目的地であるニューデリーまでこうもスムーズに着けたことが我が事ながら信じられなかった。

 

しかし順調なのはここまでだった。

 

 メトロの改札を1歩抜けた先は、異世界だった。少し前まであれだけ白い光で満ちていた近未来的な構内は嘘のように薄暗く、埃とカビ、そして砂ぼこりの臭いで満ちた空間へと変わっていた。なんだか化かされているみたいだ。そう呟きながら階段を上がり駅舎を出た。

 

 砂埃と排気ガスで作られた曇り空の中央に小さく弱々しい太陽。車、バイク、そして黄色と緑に塗装されたオートリクシャーがクラクションをけたたましく鳴らしながら荒れたアスファルトの道をいっぱいにして走る。そして道の端で客待ちをしているオートリクシャーとその運転手たち。喧騒と共にビリビリ迫り来るエネルギーの波動。圧倒的だった。

 

 目の前にファンタジー抜きの冒険が広がっている。身震いと共に首筋が粟立つ。「そう来なくっちゃ。丸出しで行ってやる!」僕は売店で買った水を力水として一口飲み、ギラリと光る異常に力強い眼光を向けてくるリクシャー乗りの群れに向かった。

 

 たむろしている運転手の中で、リーダーと思しき男が手を挙げながら僕に近づいてくる。「どこに行く?」訛りの強い英語だった。

 

 僕はホテルの名前と住所が記載された予約証を彼に見せ、「このホテルに行きたい」と答えた。男は首を右に少し傾げた。インドで肯定を表す仕草だ。

 

「いくら?」インドで初めての金額交渉だ。せり上がってくる笑顔を抑え、平静を装う。

 

200ルピー」男は無表情で2本指を立てる。

 

100ルピー」適正価格かどうか全く分からなかったが、僕ははったりを込めながら人差し指を立てていった。さあ来い! 熱い値段交渉合戦をしよう!

 

「オーケー」男はあっさりそう言った。それからオートリクシャーの運転席に座っている男に鋭く指示を出し、僕にあの車に乗れと言った。

 

 オートリクシャーの座席に腰かけると僕は運転手にホテルの名前を伝え、知っているかと訊いた。男は「もちろん知ってるここは俺たちの街だ」と言った。

 

 運転手はエンジンをかけ振り向いて合流のタイミングを計っている。さすがに大都市ニューデリー、それも駅前の道路だけあって次から次に様々な乗り物がやって来る。車線などあって無いようなもので、道いっぱいに車が溢れている。これぞインドといった光景だった。これではさすがにしばらく合流は無理だろうと思った次の瞬間オートリクシャーは右へと進み始めた。

 

「ちょちょちょ(どう考えても無理でしょ!)」言い終わるのを待たずに金属同士がぶつかる音と衝撃! しょっぱなからアクシデント。それも結構深刻。良くても82。この後どうなる? などと少しワクワクしながら心配している僕の予想を裏切り、運転手はオートリクシャーのスロットルを目いっぱい回し何事もなかったかの様に合流を果たした。追突した方が逃がすものかと猛然と追い上げてくるのでと思い振り返るが特にそんな気配はない。

 

 数百メートルほど直進すると手前に交差点が見えてきた。運転手はかなり強引な割り込みを繰り返しながら一番右の車線に出た。おそらく右折するのだろう。しかしその交差点にはにはあるべき物が見当たらない。交通を円滑にするための装置、そう信号機がないのだ。ならば指示を出す警察官なりがいるのかとその姿を探すがそれらしき人影はない。片側3車線は十分にある。もちろん対向の道路にもこちらと同じぐらいの交通量がある。外国人が一目見ただけではわからないサインがあるのだろう。流石にインドならではの指示があるのだろう?な、なっ、そうだよな!

 

 そんなものはインドには無い。きめの粗い阿吽の呼吸があるのみ。運転手はスピードを落とすことなくクラクションを断続的に鳴らしながら交差点へと突入し、まるで濁流のような対向車の流れを避けながら右折した。こいつら前世鮭か? 

 

 運転手は右折するとすぐに左にオートリクシャーを寄せて止まった。

 

「着いた」と運転手は言った。

 

 もちろん着いていない。

 

 右には交通量の多い道路。そして左には広大な敷地を持つ建物、おそらく駅だ。もちろんホテルには見えない。

 

200ルピー」そう言って運転手が手を差し出す。

 

「待て待て100ルピーだって言っただろ?」

 

「オーケー100ルピー」

 

「ここがホテル?」

 

「違う」

 

「ホテルまで連れて行ってくれ」

 

「だめだ。100ルピー払う」

 

100ルピー払わない! オーケー?」

 

 意外にも運転手は首を右に少し傾げ払わなくても良いと言う。

 

 運転手とのやり取りを聞きつけてか彼の仲間が二人近づいてきた。運転手から説明を聞いた男たちは何度か頷き、「ここだここだ」と言った。僕は英語と日本での社会性という二つの枷を外した。このままでは相手にならない。服を着たまま泳ぐようなものだ。

 

「オイオイオイ! ここじゃないだろどう見ても。俺はホテルに連れて行ってくれって言った。君は連れて行くって言った。そうだろ? どこにホテルがある? ひょっとしてあのバカでかい建物がホテルか? あれはどう見ても駅だ」

 

 大げさすぎるほどの身振り手振りと、いささか乱暴な英語交じりの日本語。これらを魂と混ぜて運転手にぶつけた。運転手はこめかみに人差し指を当てて目を瞑り、それから訛りのきつい英語で話し始めた。僕も彼の言葉に集中した。

 

「ミスター、ここなんです。ここまでなのです。ここからは通ることができないエリアです。電車がずっとあります。なぜならオートリクシャーは歩けません。またはヘリコプターのように飛ぶこともできません」

 

 いくつかの単語しか聞き取れなかったが、あとは彼の魂が補完させてくれた。つまりここからはあの駅に入って線路を跨いで向こう側に行かなくてはならないらしい。いい加減なことを言ってぼったくろうとしている訳ではなさそうだった。まくし立てて悪かったなと反省した。

 

「いくら?」僕は運転手に尋ねた。

 

200ルピー」運転手は真顔で答える。

 

「何でだよ。100ルピーだろ?」

 

 僕は笑いながら彼に100ルピーを渡した。始めて運転手の男が笑った。

 

「ミスター! 5番通路。 5番通路です」

 

 僕は礼を言って駅へと向かった。

 

 

 

 建物の中に入りると行き先をびっしりと表示した大きな電光掲示板が見えた。その真下に改札。どうやら長距離列車の駅のようだ。 

 

駅構内のいたる所に多くの人々が体を丸めて眠っていた。薄暗さと辺りに立ち込める饐えた臭いが、寄る辺なさを一層強く掻き立てた。

 

 それにしてもどこをどう行けばいいのかさっぱり分からなかった。僕は運転手が言っていた5番通路を探したがどこにもそれらしい表記はない。正面は改札なので除外。右か左か? しばらく様子を伺い、多くの人が歩いていく左の階段を選んだ。階段の踊り場にもぼろぼろの毛布にくるまって眠っている人がいる。

 

 階段を上がり、荷物チェックを受けた先に5番通路を見つけた。陸橋の上から複数のホームと線路、そこに停車している青い列車が見えた。列車の窓からごみが線路に向かって投げ出されていた。

 

線路を跨いで駅の向こうに出ただけなのに掌に汗をかいた。駅を出るとそこにもたくさんの車とオートリクシャーがギッシリ駐車している。

 

大きなリュックを背負って立ち止まるカモを見逃す奴はここにはいない。あっという間に僕は3人の男たちに囲まれた。彼らはミスターどこに行く? 俺の車に乗りなさあ、さあ! と口々にまくし立てる。僕は負けじとポケットからホテルのメモを取り出し「このパルムドールホテルに行きたい! 知っているか?」と大声で聞いた。

 

 3人のうち2人にコンマの隙が生まれた。残りの一人はそこを見逃さず間髪入れずに「もちろん知っている、さあこっちだ」そういって僕の手を引き他の二人から離れた。

 

 手練れ、それ故に危険。僕は握られた手を引き抜き主導権を得ようと「いくら?」と訊いた。男はゆっくり振り返った。小柄な老人だった。クリーム色のターバンを巻き、額には朱色のビンディを塗っている。大丈夫安心して付いてきなさい。そう言って男は進み、隙間なく縦列に駐車された車の前で止まった。スズキの軽ワゴンだった。

 

 僕は再び「いくら?」と訊いた。

 

 男は「200ルピー」と静かな口調で言った。

 

100ルピー」

 

200ルピー」

 

150ルピー」

 

200ルピー」

 

 微動だにしない、取り付く島がない。男は穏やかな表情を崩さず再び200ルピーと言った。彼の穏やかな物腰と宇宙の真理に手が届いていそうな風貌が僕に「ひょっとすると適正な値段じゃないか?」と感じさせた。修行の一環で運転手もしている徳の高い僧侶と見れないこともない。

 

 僕はオーケーと言って彼の車に乗り込んだ。とっくに走行メーターがカウントストップしているであろう車内のシートは撤去され、代わりにベンチが作られていた。もちろんシートベルトなど無いので、僕はまだらに変色した運転席に手をかけた。

 

 車は前後に握りこぶし一つ分の空間を残してギッシリと縦列駐車されている。前の車の運転手を呼んでスペースを開けてもらうのだろうか。

 

違った。運転手は躊躇なくアクセルを踏み込み前の車のバンパーを押し、これ以上押せないと判断するとギアをリバースに入れ後ろの車にぶつけてスペースを作ったのだ。それからゆっくりハンドルを切って縦列駐車から脱出した。車の周りにいる人々の様子から察するに、何一つ特別なことは行われなかったのだろう。ここインドでは。

 

運転手はハンドルを握るとそうなるのか、先ほど感じた徳の高さは消え失せ、非常に荒々しい運転で駅の広い敷地を走った。この車のクラクションは長年に渡る酷使に耐え切れず、すでに裂けていた。そのためいくらクラクションを強く押しても「フー! フー!」という空気の漏れる様な音しか出なくなっていた。それでも運転手はその気の毒なクラクションと自身の塩辛い怒声を断続的に響かせながら他の車や歩行者を威嚇しつつ進んでいった。精一杯の強がりのつもりで「やるじゃない」と言った。自分でも信じられないほど弱々しい声だった。

 

2分ほど進んだところで車は止まった。穏やかな表情を取り戻した運転手はドアを開け「着きました」と言った。僕は彼の差し出す手に200ルピーを渡して車を降りた。

 

オートリクシャーを降りた僕は辺りをぐるりと見渡した。大通りを進んで来て、高架の下をくぐったすぐを左折。100メートル進んだ地点に我が宿パルムドールホテルはあった。両隣もどうやらホテルのようだ。

 

ホテルの前には大柄な男がパイプ椅子に座りながら辺りに鋭い視線を向けている。僕は彼に挨拶をしてホテルへと入った。門番だろうか? フロントで予約証とパスポートを見せ部屋の鍵をもらった。階段を上り部屋へと入る。

 

左にバスルーム。正面に小さな鏡と机。そのすぐ脇に大きなベッドがあった。ほっと一息つき荷物を下ろすと同時にノックの音が響き、返事も待たずに男が入って来た。門番でもフロントにいた男でもない。男は笑みを浮かべながら「ミスター、ここがバスルームです。これがエアコンです。テレビもあります。ほらちゃんと映ります」と説明を始めた。僕はオーケー分かったありがとうと務めて穏やかに言って出て行ってもらった。

 

「ビックリした。何だよ」と僕が独り言を言うと再びドアが開いた。ノックはなかった。今度は大きな声が出た。

 

男は少しも気にせず「ミスター、ルームサービスもあります。この上の階にはレストランもあります。朝食はそこで」と言った。なるほどチップか。僕は50ルピーを彼に渡し、少し眠るから起こさないでと伝えた。彼はもちろんと言って去っていった。

 

ドアに鍵をかけベッドに寝転がり『愛と幻想のファシズム』を開いた。数行読んだところで僕は気を失うように眠った。

 

『男気をひと匙』

『男気をひと匙』

 
 水滴に覆われたステレス製のマグカップを持ち上げ、アイスコーヒーを一口含む。木目模様のカウンターテーブルには、水滴が描いた輪ができている。店内のざわめきの合間に有線放送が聞こえる。ヒットチャートだ。
 1997年。
 2月にクローン羊が開発され、3月にはナゴヤドームが完成し、4月に消費税が5%に上がり、7月に映画『もののけ姫』が公開され、10月にトヨタがプリウスを発売した。
 その年の11月半ば、18歳の僕は自動車学校の帰りに立ち寄った大きな喫茶店のカウンター席に座り、アイスコーヒーを飲んでいた。ここがこの話の舞台だ。
 
 店に入り、漫画雑誌でも読もうと思い席に着くと、注文したアイスコーヒーを運んで来たおばさんがそのまま隣の席に座り休憩をとりはじめた。他にも席は空いているのだが、その席で休憩を取る決まりがあるのかもしれない。僕は少しだけ座る位置をずらし、マンガの続きに戻った。
「暑いなぁ」おばさんは手のひらで風を送りながら呟いた。「ねぇ、暑くないですか?」
 僕に聞いているのか? ゆっくり顔を向けると「暑くない? ねぇ?」とさっきよりも大きな声で言った。もはや質問ではなくなっている様に聞こえたが、「いえ、ちょうどいいです」と返答した。
 するとおばさんは「えっ? 暑くない? 本当?」と大げさに言うと近くを通りかかった店員を呼び「ねぇちょっと暑いよ、下げて来て。お客さんも暑いって言ってるから。後サンドイッチ持って来て、からし多めで」と鋭く指示を出した。
 年の頃は50歳以上、緩くパーマのかかった髪の毛を紫色のヘアバンドで後ろに流し、大きなティアドロップ型の眼鏡に茶色のグラデーション。そして遠慮なく真っ赤に彩られた唇からの個性的な声。酒とタバコで磨き抜かれたものだろう。
「急に寒くなってさぁ、なったでしょ急に」おばさんは煙草を一本抜き出してくわえると、灰皿を手元に引き寄せながらそう言った。僕は「そうですね」と返す。細身のライターでタバコに火をつけると一息吸い込み、煙を細く強く吐き出した。
「で、今日も寒くなるもんだと思って暖房強くしといたんだけどさ、暑いでしょ今日。いや、最近にしてはだけど。それに私たち歩くでしょ。だから暑くって」
「そうですか」そう言って僕は漫画雑誌に戻ろうとした。
「疑ってない? ホントホント、ホントなんだって。暑くって背中汗びっしょりなんだって。触ってみる? ホントだから」
「いえ」僕は即答した。既に真顔だ。
「大丈夫大丈夫。冗談だって、何も直接触れって言ってるんじゃないから。ほらシャツの上から触ればいいから」おばさんはにやりと笑いながら言った。
 いったい何を言っているのだろう。いったい何が大丈夫で、何が冗談なのか。確かに彼女の着るグレーのTシャツの背中には丸く汗染みが浮かび上がっている。触って確かめる必要などないじゃないか。第一僕はちっとも疑ってなんかいない。
 背中をこちらに向けて「ほら」というおばさんを前に脳が止まりかける。サービスのつもりか? 迫る背中を前にすくむ僕。タバコの臭いと流れる有線。
 ギリギリの間合いに、先ほどおばさんが頼んだサンドイッチを持った店員が割って入った。おばさんは椅子に座り直してそれを受け取り、黙って食べ始めた。
 漫画雑誌を開くべきか否か、僕はサンドイッチを食べるおばさんの様子を横目で見ながら考えていた。ひっきりなしに話しかけられるのも困るが、この沈黙も居心地が悪い。いっその事帰ってしまおうか? むしろ帰るのが一番の選択だ。漫画雑誌を読めないのは残念だが、よそで読めばいい。
 僕は氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーを飲みきり、雑誌を手に立ち上がろうとした。その時、おばさんが「ちょっと」と切り出した。その手には一切れのサンドイッチを乗せたバスケットがあった。そしてそれを一切れどうかと僕に勧める。
 断りきれずに腰を浮かせたままそれを受け取り、再び腰掛けた。これを食べたらそのまま帰ろうと思い、勢いよくサンドイッチをかじる。ふた口咀嚼した所で舌に強い刺激を受けた。刺す様な強さの辛みがそれ以上の咀嚼を制限する。息を吸う事も吐く事もままならない。髪の生え際から汗が噴き出す。
 カラシ、それも尋常でないほどたっぷりと塗ってある。ほとんど形が残ったまま無理矢理飲み込んでしまうか、さもなくば吐き出してしまうか。
「あぁ、可笑しい。そんな急に食べたらそうなるって、あぁ可笑しい。涙でちゃう」
 おばさんは悶絶する僕を見て大声で笑い出した。それを見て僕は覚悟を決めてサンドイッチを猛烈な勢いで噛み砕き飲み下した。そして激しくむせ返した。涙の滲む目で空のマグカップを見やり、アイスコーヒを飲みきった事を痛烈に後悔した。おばさんは手を叩いて笑っている。
「久しぶりに笑ったわ。でもね、大げさ過ぎ、お兄さん。私なんか毎日それ食べてるんだから」
「そうですか」と僕は言い、咳き込んだ。
「ところでさぁ、お兄さんいくつ?」おばさんは身を乗り出しながら訊いた。
「18です」
「えっ、18? はー、若いね。で、彼女は?」
「いや、いませんよ」
「えっ、ひょっとして今まで一人も?」おばさんはわざとらしく辺りをうかがい小声で言った。
「ええ、まぁ」僕はうつむきながら答えた。
「だめだよ若いのにそんなんじゃさぁ。で、ほしい?」
 僕が「何をですか?」と聞く前におばさんは「彼女!」と言った。
「それは……、まぁ」
 酸いも甘いも噛み分けて来たベテラン女性の話術の前になす術無く翻弄される。
「私が後30若かったら付き合ってあげても良かったんだけどね、って違うか」おばさんはそう言うと一人で笑った。僕は「はぁ」と生返事で濁した。
「で、どう私? 付き合ってあげても良いけど」と言い、一拍置いた後に「冗談冗談」と言いながら僕の肩をバシバシ叩き、急に真顔になって「で、どう? 私」と繋いで大きな声で笑う。ここまで来ると少し愉快な気分になってくる。僕はにっこりと笑った。
 マンガを読むのを諦めてしばらくおばさんと談笑していると、ヒステリックな女の声が店中に響いた。反射的に首を巡らせる。僕が座るカウンターから、4人がけのテーブルをひとつ挟んだ角の席からだった。グレーのスーツを着た大柄な男の背中、その向かいに髪の長い女。
「どうしてよ! どうしてそんなの信じられると思うわけ!?」
「おい、静かにしろって」
「触らないで!」
「落ち着けって」
「落ち着いてるでしょ! なんなのその女は!」
「ちょ——」
「呼んで!」
「頼むから——」
「今!」
「なぁ、聞け——」
「ここに!!」
 女は力一杯テーブルを叩いた。バチーンと大きく湿った音。それ以外の音がその一点に吸われたかの様に、店の中は静まり返った。テーブルの上でアルミの灰皿が、ガランガランとのたうつ音がうつろだ。
「なにやってんだよ、灰が飛び散っちゃって」男は優しくそう言っておしぼりで散らかった吸い殻を集めている。
「逸らさないでよ! そうやって、いつも、いつも、ごまかして! なんで? なんで、なんで!」
 そこまで言うと女はテーブルに突っ伏し、そして大きく嗚咽した。僕は隣のおばさんに目を遣った。目が合うとおばさんは声をひそめて「大丈夫よくある事、ただの痴話げんか。まだ止めに入る所までいってないから」と口元をほころばせながらそう言った。
「でも、まぁお兄さんにはちょっとって言うか、かなり刺激が強すぎるか?」 
 そういう問題ではない気がするが僕は「はぁ」と曖昧な返事を返した。女の嗚咽が小さくなり、すんすんと鼻をすする音にかわった。
 男はポケットからタバコを取り出した。突っ伏した女の挙動を気にしながらフィルムを剥がし、一本抜き出し咥えた。金色のオイルライターの蓋を小気味よく開けて火をつけ、ゆっくり深く吸い込んだ。そしてこれまでのやり取りで蓄積された溜め息を煙に変えて吐き出した。
 狼煙の様に上がった煙が合図だったかの様に店内の緊張も緩み、ざわめきが戻った。しかし同時にこの事態の続きに対する期待感も店中に満ちているのが感じ取れた。
 特におばさんは奥のテーブルを食い入る様に見ながら「まだまだ続くよ」とか、「もう一発あるね、山場が」などとコメントしていた。止める気はあるのだろうか?
「ねぇ」奥の席に座る女が伏せていた顔をゆっくり上げながら言った。小さな声だったが、店のざわめきが再び吸い込まれた。
 男はこのインターバルの間に準備ができたのか、「何だ?」と言いながら吸っていた煙草を消し、座席に深く腰掛け直した。
「あの子若いし、可愛くて大学も出ててさぁ」
 女は声を震わせながらゆっくりと話し始めた。話の合間に、歯の鳴る音がかたかたと小さく聞こえた。
「さっきから何回同じ話すりゃあ分かるんだよ? あぁ?! あの子は会社の事務の子なの、飯食って送ってっただけだって言ってんだろうが! あ?!」
 男はどすの利いた声で凄んだが、女は一歩も下がらないどころか、逆にテーブルに身を乗り出して男に顔を近づけた。
「あぁ、そう。そろって出て来たから勘違いしちゃった。へぇ、やってないんだ」
 女の口調は狂気を感じるほどの棒読みだった。
「やるとかお前、そんな事あるわけねぇだろ」男は女の視線から逃れる様に横を向き、煙草を咥えた。
「本当に送っていっただけ?」
「お前、なぁおい! 何回目だこれ? いい加減にしない——」
「送ってただけじゃないでしょ? 一緒に入っていたじゃない。マンションに!」
 女は相手を勢いに乗せない様に機先を制した。
「それは……、お茶でもどうですかって言う——」
「あんなに長い時間かけて飲むお茶って何!?」
 男は火のついていないタバコを灰皿でもみ消し、新たに一本咥え、ぶれる炎で火をつけた。そしてせわしなく煙を吐き続けた。
「仕事で悩みがあるから相談に乗ってほしいって言われて、それで」
「笑わせないで!」
 女はテーブルを両手で何度も叩いた。コーヒーカップや水の入ったグラスが紙相撲の要領で跳ね、ガチャガチャと耳障りな音をたてる。長い髪が乱れ、顔を覆う。勿論女は少しも笑ってなんかいない。「全部知ってるの! 知ってて聴いてるの! 馬鹿みたいな言い訳ばっかりして! やったって言いなさいよ!」女は金切り声をあげながらまくし立てた。
「ちょっ、ちょ、やめろって。本当にやってねえって。おかしいぞお前。落ち着けって、やってねえから」男の一言一句は全て燃えやすい油となって女へと注がれる。
「そう。じゃあ、これからもその女とやる事は無いってことだ?」
 女はテーブルを叩くのをやめた。肩で息をしながら顔にかかった髪の毛をゆっくり耳にかけた。真っ青な顔に赤く血走った目。紫色の薄い唇の端がゆっくり持ち上がる。
 笑ったのだ。
 男が息をのむ「ひゅっ」という音が聞こえた。
 無理も無い、数メートル離れていても心臓に迫るものがあったのだ。
「あの女、縫ってやる」無表情のまま女は呟いた。
「え、え? お前何言ってん——」
「やらないんでしょ? だったら必要ないじゃない。縫っても構わないじゃない」
「縫うって? ちょっとお前、ねぇ」
 女はすっと立ち上がり、ふらりと一歩踏み出した。
「おいおいおい、どこ行くんだよ」男があわてて立ち上がり女の肩に手をかける。
「どいて。私忙しいの」
「バカか! 落ち着けよ、だいたいどこでやってもらうんだよ! 保険効かねえぞ、そんなもん」
「バカはどっち!? 私がやるに決まってるでしょ! 糸と針で!」
「さて」おばさんはおもむろにタバコに火をつけると、穂先をどんどん焦がす様な勢いで吸い、そして盛大に煙を吐き出した。「ちょっと行ってくるわ。さすがに酷過ぎ」
「大丈夫ですか?」
 おばさんはそう聞いた僕の目の前にある灰皿でタバコを豪快にギュッと消して「慣れてんのよ」と言った。酒場の用心棒の様な頼もしさがあった。
 おばさんはまっ只中に割り込むと「お静かにお願いします! 他のお客様もいらっしゃいますから!」とピシャリと言い放った。その一言で、あれ程手のつけられなかった女を正気に戻し、浮き足立っていた男の足を地に着けさせた。さすがに慣れていると言うだけあって見事な手際の良さだった。僕もスクリーン越しであれば拍手を送りたいほどだった。辺りから「おぉ」と言う感嘆の声が小さく上がった。
 男は小さな声で「すんません」と言い、恥じ入る女を促し身支度を始めた。完全に勝負ありだった。しかしおばさんは、この結果を良しとしなかった。完膚なきまでにやり込めるつもりなのだ。
「大体、こんな昼間っからする話じゃないでしょ。しかも大勢の人の前で、恥ずかしいと思わないんですか?」おばさんは胸を張り、顎を上げながら言った。うなだれて帰り支度をしていた男の動きが止まった。
「それにねぇ、縫うとかなんとか女性が口にする様な事ですか? 下品でしょ? みんな迷惑してましたよ!」
 男の背筋が伸び、両肩が持ち上がる。おばさんはそれに少しも気付いていない。それどころかさらに勢いを増している。
 この昼下がり、萎えていた虎を無闇に焚き付け完全に覚醒させてしまった。
「だぁらぁ! コラァ!」男はおばさんの攻めを遮り、一声腹の底から吠え上げた。思ってもいなかった反撃におばさんの体は身震いして真っ直ぐに伸びている。「好き勝手言ってんじゃねぇぞ、こら。こっちが非を認めてんのに、追い撃ちかけやがって、気分よくなってんじゃねぇぞこの野郎!」男がおばさんに詰め寄る。
「大体な、人を詰めるってことはよぉ、自分が詰められる事も承知の上でやってんだろ? なぁ、日和ってんじゃねえぞ!」
 グイグイ詰め寄られたおばさんは後ずさり、とうとう窓を背にする所まで追いつめられてしまった。
「お前『みんなが迷惑してました』とか何とか言ってたよなぁ? そのみんなってのはどこのどいつだよ、連れてこいよここによぉ! あぁ! 一人一人に謝ってやるからよお! 連れてこいよ! そのみんなをよお!」
 『遠山の金さん』のクライマックスの様な光景が目の前で繰り広げられていた。おばさんは目を泳がせながら縋るものを探している。他の客は一様に視線を下に向けている。
 僕は他の店員の姿を探した。助けに入らなくてはいけないはずの店員達はただ遠巻きに心配そうに様子をうかがっている。巡らせていた視線を再び現場に戻すと、おばさんの泳ぎ疲れた目と目が合った。嫌な予感の細く冷たい指先が、僕の背中の溝をそっと撫で上げる。
「あ、あの子よ! あの子!」おばさんは指差した。震える指の先には僕だ! 視線が一つ二つと向けられる。
「彼女もいない純粋な子にドロドロの話聞かせて、あの子に迷惑よ!」
「え、俺ですか?」
 僕はあまりの事に誰にともなく敬語で呟いた。
 狼狽える僕に容赦なく集まる集中線! 投げてよこしやがった! 熱々のおっさんを、不意に!
 男がゆっくり振り返る。
ストライプの入ったグレーのスーツ、ボタンは止めず、ネクタイは無い。左の袖口からのぞく時計は鈍く光をはじく銀色。真っ黒に磨き抜かれた黒い革靴が音をたてて僕に近づく。
「ニイちゃんか?」男は僕の前に立ち、低い声でそう言った。
 僕は「あのですね」などと口ごもりながら、椅子をガタガタいわせて立ち上がった。向き合うと男は僕より頭一つ分ほど背が高かった。
 浅黒く焼けた顔、酒かサロンか。分厚い胸元には金のネックレス。そして木星を連想させる様な頭髪。パンチパーマだ。その風体、いかにも!
 僕の頭の中では「これはまずい、考えろ!」が輪になって巡っているだけだ。
「迷惑かけたな」静かな口調で男は言い、僕の左肩に手をかけた。「でもなぁ、言いたい事あるならよぉ、てめえで言いに来いや!」
 全ての思考がかき消された。頭の中に自分の拍動が大きく鳴り響いている。どっと吹き出した汗の臭いを客観的に嗅ぎ取った。後頭部に繋がれた見えない糸を後ろに引かれているように体が少しずつ仰け反っていく。
「何とか言えよ! 何のための口だよ、男だろうが!」
 おばさんの姿が目に入る。しゃがみ込み、顔の前で手を合わせ「ごめんね」と口を動かすのが見えた。左肩に男の手の平が食い込む。その痛みが頭の中のもやを払った。「俺が引き受けてやる」そんな意地が芽生えた。
 背で矢を受けて女を守り静かに息絶える。子供の頃から憧れるのは決まって損な役回りのキャラクターだった。
「黙ってんじゃねぇよ!」男は腹に響く様な声で迫る。タバコと香水では隠せない肉食獣の体臭が漂う。男のプレッシャーをまともに受け、暴れる歯の根を力ずくで黙らせる。両拳をきつく握りしめ体中のあらゆる場所から『男気』をかき集める。この男を攻略するためではない、この場から一歩も逃げ出さないでいる為に使う分だけでいい! この薄い左胸に! 男気をひと匙!
 僕は男の目を真正面から見返した。男の眉尻が動く。
「ニイちゃん、オモテ行こうか」男はそう言うと店の入り口へ向かった。後について歩き始めると、店内がどよめいた。
 店の外に出る。冷たい風と西日。男の後を付いて、駐車場の隅。そこで男は立ち止まり振り返った。暴力の可能性とその臭いに当てられて、僕の膝は冗談の様に震えていた。心臓は早鐘を打っていた。本能が必死に逃げろと訴えかけてくる。男の手がポケットに入る。反射的に全身に力が入る。奥歯が鳴る。
「殴らねぇよ」男は僕の反応を見て少し笑い、取り出した煙草を咥えた。そしてゆっくり煙を吐き出し、「悪かったな、場面使わせてもらってよ」と言った。
 男は吸い殻を排水溝に捨てるとポケットからマネークリップを取り出し、そこから1万円札を抜いて僕に渡した。
「助かったよ。もう行っていいぞ、ニイちゃんの分払っとくからよ」そう言って男は店に戻っていった。
 男の姿が見えなくなると、僕は駐車場に座り込んだ。座ってもなお膝は震え続けている。アスファルトはとても冷たい。
 受け取った1万円札が風に煽られてカサカサと音をたてる。西日で伸びた僕の影は、淡く長い。沸々と発生する感情。
 冗談じゃない、茶番に巻き込まれたのはまぁいい。だが、この金を受け取ってしまったら、僕のなけなしの男気を金に換える事になるだろ? それだけは絶対に我慢できない! 
 僕は震え続ける両膝に拳を打込み立ち上がった。この1万円札を叩き返してやる! 
 鼻先で冷たい風を切り、大きな歩幅で喫茶店へと向かった。そして僕は冷たいドアノブに手を掛けた。
 

『不死鳥の様に』

『不死鳥の様に』

 
 規則正しく枕木を踏みながら進むローカル線。平日の昼間乗客は少ない。僕は日に焼けた茶色いシートに深く腰掛け短編を読み進めている。向かいのシートに座る年老いた男性は節くれ立った指を組み居眠りをしている。
 車窓には延々と続く青々とした田園。途中短いトンネルを挟み、また田園へと戻る。太陽は高く、日差しは白く強い。
 切りの付いた所でしおりを挟み、腕時計に目をやる。目的地まで後30分。少し眠るか、続きを読んでしまうかとぼんやりと考えていると、発生する兆しを感じ取った。手のひらで胃腸のある辺りを触る。張っている。
 そこから一気に膨張する腹痛。今までどこに潜んでいたのか?このクラスの腹痛をどこに匿っていたのか? なぜ今まで感知する事ができなかったのか? そしてなぜ今このタイミングでそれを解き放つのか?
 際の際を100とすると、ゲージは60まで来ている。乾いていない眼球の前をしきりに行き交う瞼。呼吸は浅く遅くなる。手のひらにじっとりと汗。
 僕は文庫本を開き活字を追う。気のせいにして押し込んでやる。同じ行を3回読んだ所で腕時計を見る。5分も過ぎていない。
 目を閉じ、腹式呼吸で目一杯息を吸い込み、ヘソの下に力を込めながら限界まで息を吐ききる。これが幸いしてかフッと楽になる。安堵のため息を軽くつき、前傾姿勢を解いてシートに背を預ける。手のひらで額の汗を拭いてゆっくり足を組む。
 僕は今朝と昨夜のメニューを思い出し、それらを食材単位で異常が無かったかを検討した。心当たりは無い。では胃腸風邪の可能性は? それも考えにくい。他に体のだるさなどの症状が出るはずだ。
 この腹模様、今は落ち着いているがこれは仮初め。言ってみれば寝入りばなの虎だ。いつ目を覚まし牙を剥くとも知れない。目的の駅ではないが、次の駅で一度降りる事に決めた。総合駅なのでトイレも勿論ある。
 間もなく次の駅に止まる事を報せるアナウンス。同時に突き上げる様な腹痛。充分な助走をつけて戻って来た波。あまりの痛みに思わず立ち上がる。その音で向かいの老人が目を覚ます。
 そのまま扉の前まで進み、靴ひもを固く結び直した。指先が細かく震えて苦労した。75、80に迫る所まで来ている。時間がない。再び腹式呼吸で押さえ込もうと試みるが、あまりの腹痛の強さにひるみ実行できない。
 電車がホームに滑り込む。アドレナリンに任せて扉に両手をかけ、こじ開ける様にしてホームへと出た。電車へと乗り込む人をよけながら走り出す。3歩走って止まる。ストップ、そのアドレナリンストップだ! この状況下で大きな振動はいけない。素人か!
 頭を冷やしエスカレーターを上り、改札を抜けるとトイレの案内を探し出し最短距離で進んだ。
 トイレの入り口を入ると目の前にポケットティッシュの販売機が設置されていた。まさかと思い個室をのぞくとトイレットペーパーが無い。気付くのが入った後で無くてよかった。間に合った後に立ち往生する所だった。トイレに無事たどり着けた安堵からか強くなる腹痛。僕は最後まで気を抜かない事を自らに言い聞かせて販売機まで戻った。
 年季の入った赤い塗装の販売機に『¥100』と書いてある。ずいぶん高いなという思いを即座に打ち消す。この状況下では至極真っ当な値段だ。財布を出し小銭入れを開けて吹き出す汗を感じた。100円玉が無い。冗談ではない。軽いパニックに陥る。札入れをのぞく。一万円札の肖像画と目が合う。「悪いね」と言われた気がした。熱い汗をまとい凍える腹部ってやつか。
 首筋に手をやり、それから鼻の下を指先で拭う。額から流れ、眉毛を突破した汗が右目に入る。
「男を何年やっている?! これからも男でいたければ動け!」枯れかかる気力をかき集め僕は踵を返した。
 この腹痛には自我が宿っていた。僕の内臓を内から食い破ってでも外に出る意思に満ちていた。鬼子だ!
 状況はもはや90を超えており、一時でも動きを止めてはならないステージまで上がっている。トイレを出て隣の書店へ入る。
 レジにいる眼鏡をかけた学生風の店員に「両替をお願いできませんか?」と聞くと「あ、それ無理っすね。ここ」と言ってレジスターに貼られた注意書きを指し示した。確かにそこには両替を受けないと書かれている。僕はそこをなんとかと再び頼んだが答えは「無理っすね、店長呼びましょうか?」だった。
 彼にはこの尋常でない量の汗や、絶えず踏み続ける得体の知れないステップが伝わらない。もしこの窮地を救ってくれたならば、将来生まれてくるかもしれない息子に君の名前を付けるほど感謝するというのに! 
 十数人で抱える規模の丸太を、木製の城門に向かって何度も打ち付ける図が張り付く。頭の中で『ドカベン』のサビの部分だけが繰り返し流れ続けている。
 一刻の猶予も無い、だめなものに時間をかけるわけにはいかない。外に出て辺りを見渡す。目についた薬局へ向かう。店の入り口に積まれたトイレットペーパーのパックを掴みレジへ行く。1万円札を出す。9,702円の釣り銭表示が出る。お札を揃えて「ご確認をお願いいたします」と言う店員に「信じる」と短く強く言い、受け取った釣り銭をポケットにねじ込みトイレへと向かった。
 歩く、歩く、歩く! 汗で濡れた両拳を固く握りしめ、体中の筋肉を引き締めてすり足で向かう。噛み締めた奥歯が嫌な音をたてる。眼光鋭く前だけを見て歩いた。
 トイレの個室に入ってからも気を緩める事は無かった。しびれた指先でベルトを外し、便座に座るまで決して気を緩める事はしなかった。
 僕は勝った。容赦なく追い込みをかけてくる生理現象に、体力気力理性を総動員して勝った。アスリートが言う「一番の敵は自分」という言葉が実感できた。
 目の前のトイレットペーパー12個を3つの個室に3個ずつ置き、残りの3個をポケットティッシュの販売機の上に並べた。それから顔を洗い、外に出た。
 世界は薄皮を1枚剥いだ様にくっきりとしていた。すべての憂いや悩みが消え失せ、体の奥底から湧き出る力を感じた。自らの炎でその身を焼き、灰の中より復活する不死鳥にでもなった様な気分だった。
 

『鳩は唄う』

『鳩は唄う』

 
 昨今、体罰は絶対に許されない行為となった。しかし僕が中学生だった頃にはまだ体罰が残っていた。(少なくとも僕の通っていた学校では)
 さらに今から考えれば驚くことに、多くの教師が程度の差こそあれ体罰を使用していた。ロマンスグレーの国語教師でさえそうであったのだから、その当時の教師の嗜みだったのかもしれない。学校側も、用法用量を守って正しく使う分には不問にするというスタンスだった。それによって教育委員会やPTAが騒ぐことも無かった。良い悪いは別にしてそういう時代だった。
 
 時は1992年、バブルが弾けたばかりの頃。僕は当時中学にあがったばかりだった。最初の学年集会において、先生の話を聞かずに談笑をしていた生徒が前に連れ出され数発平手打ちをされた。おそらく見せしめ的要素を含んでいたのだろうが、その効果は言うまでもなかった。
 
 その数日後身体測定の一環として、僕たちのクラスは体育館に集められた。
 まず「いつもの二人一組になりなさい」体育教師はよく響く声でそう言った。僕はペアが欠席していたため体育教師が測ることになった。
「今から3分間昇降運動をした後、相方に脈拍を測ってもらえ。測ってる最中は絶対しゃべるな、息止めるな、笑うな。脈拍変わるから」
  体育教師の笛の音で昇降運動が始まる。3分間が過ぎた。なかなかの運動だ。上気した僕たちは床に座って脈を測る作業に入った。
 大きく分厚い手が僕の手首を掴む。圧倒的な力の差が嫌でも伝わってくる。
 良く晴れた4月の昼下がり、柔らかな日差しにあふれた外の世界とは逆に、張りつめた空気の漂う体育館。そこへ不意に響く鳩の鳴く声。体育館のエコーを活用して、伸びやかに気持ち良さそうに唄っている。一緒にハミングをしたくなる心地よさだった。一瞬気が緩み口元がほころびた。
「どうした?」体育教師が尋ねる。しまった! 背中が粟立つ。「あの、鳩がいるんだなと思いまして」
 他の生徒の視線が集まる。「いるんだよ昔から、家族で」意外にも穏やかに話す。
「そうなんですか……」言いかけたところで体育教師は人差し指をゆっくりと僕の胸の真ん中に当て、押した。
 刺す様な痛み。指先一つで! 「しゃべるなって、言っただろ」顔を近づけて凄む。それから腕時計をみて「脈拍測り終えたら用紙に記入しろよ。終わったら少し早いけど教室に戻れ」と生徒達に向けて言い、僕には「お前はもう一回な。次喋ったりしたらこれだからな」体育教師は顔の前で拳を握り力を込めた。音をたてて膨張する二の腕、血管が浮き出す毛むくじゃらの腕。
 僕は言葉も無く頷いた。そして再び始まる3分間の昇降運動。僕一人の足音が体育館に響く。鳩はまだ朗々と唄い続けている。
 考えるな! 鳩が鳴くのはちっとも珍しいことじゃない。『喋らない、息を止めない、笑わない』僕は頭の中で禁止事項を運動に合わせる様に何度も反芻した。
 何度か反芻しているうちに不意に紛れ込む『毛むくじゃら』という単語。追い出そうとすればするほど浸食してくる。
 3分経過のアラームが鳴る頃には思考の7割が『毛むくじゃら』と『笑わない』の混合体で覆われていた。そして残りの3割が体罰に対する恐れだった。
 体育教師の前に行き、腕を差し出す。僕の腕を掴むその腕が視界に入る。筋肉を覆う腕毛。質、量共に圧倒的だった。世界で勝負できる実力だ。
 不意に胃の辺りで発生する兆し。それは水中で放たれた気泡の様に内臓の間を縫う様に上がってくる。非常にまずいことになった。この笑ってはならない状況の中で、今僕は笑ってしまいたい欲求を発生させてしまったのだ。
 余計な情報を入れてはいけない。どこから火が出るか分かったもんじゃない。僕は目を閉じた。そして口の中を噛み、痛みで笑いたい衝動を抑えることにした。
 荒ぶる呼吸を整える。そう、このまま後数十秒しのげばいい。依然、鳩は朗らかに鳴き続けている。さっきまでより大きな声で唄っている。鳩は誘っている。「一曲やろうぜ」と僕を誘う。よしてくれ、とても今そんな気分になれないんだ。再びさざ波が起こり、頭の中が沸き始める。中心に毛むくじゃらの逞しい腕。それを取り囲む様に手をつなぎ唄う鳩。マイムマイムのようだ!
 まずい、勘弁してくれ。追い出そうとすればするほどそのイメージは強く浮き上がり動き始める。
 強く噛みすぎた口が切れ、血の味が満ちる。浅く速くなる呼吸。大きく吸ったが最後、新鮮な酸素と共にバックドラフトが起こってしまう事は経験上明らかだ。
 自分の脈拍が頭の中で鳴り響く。そこに鳩の唄が乗り、一つの音楽となっている。もう投了だ。風のひと撫でさえ耐えることができない。吹き出してしまう。
「おい」寸前で体育教師の声がした。脈を採られていた腕が強く握られる。「息を止めるなって」振り上げられる腕。十分なテイクバック。「言っただろうが!」ヒュっと小さく風を切る音、間を置かずに肉を打つ音、同時に衝撃、わずかに遅れてとりあえずの痛み、そして詳細な痛み。焼けるようだ。
 ピシャーンという音の尾が耳の奥で鳴り続けている。
「お前がちゃんとやらないから、ミミズ腫れにな——」
 体育教師言いかけるのと同時に僕は盛大に吹き出した。そして求めていた新鮮な空気を思い切り吸い込み笑った。体中の筋肉を使い笑った。
 呆然としている体育教師、瞬きを2度3度。
 打たれた左腕が痛んだが、それさえ可笑しかった。見切った!僕を押さえつけていた体罰。その実態を! この程度のものだったのだ。
 さぁ、鳩よ唄おう。ここは一つ派手にいこう! ここからはラプソディーだ! 迫る平手もお構いなしだ!
 

『雨に高笑いを』

 

『雨に高笑いを』
 
 子供の頃読んだロビンソークルーソーに出てきた大木で作った船。これにオールと食料などを積んで大海原に出るところに長い間ロマンを感じていた。大自然に人が知恵と工夫で対抗する。ここが猛烈に熱く冒険を感じさせてくれた。窓から外を眺めながらそんなことを思い出していた。
 今日は原付バイクで帰らなくてはならないのだが、あいにく雨が降っている。アスファルトに跳ねるほどの強さではない。僕は外に出て手のひらで雨量をはかった。そこまで強くは降っていない。イギリス人なら帽子でやり過ごすレベルだ。
 レインコートがあれば問題ないのだが、無い。無いなら作ればいい。僕は店にある45リットルのゴミ袋を1枚取り出し、袋の底に頭の入る穴を開け、その左右に腕の通る穴を開けた。袋をカサカサいわせて実際に着てみる。腕と下半身は出ているが、なに心臓と内蔵がカバーされていれば十分。ヘルメットで頭部も保護できる。
 僕はワクワクしてきた。「小雨対俺の工夫」などと一人呟く。
 表に出てバイクまで向かう。雨がビニールを打つ音がする。いいぞ、これならば十分にしのげる。
 しかしバイクにキーを差し込んだ所でミスに気がついた。
 ガソリンの残量計がEを指している。祈り、エンジンをかける。かかった。しかしアイドリングは大変弱い。ガソリンスタンドへ寄らなければばならない。
 スクーターに跨がり最寄りのガソリンスタンドへ向かう。5分もかからずに着けるだろう。
 ヘッドライトが雨降る夜道を照らす。風を切ればゴミ袋が鳴る。闇夜の路地を、颯爽と駆け抜ける怪盗のマントの様だ。僕は人通りの無い道を高らかな笑い声とともに走った。
 雨の勢いはバイクで走っているため、強く当たるようになっていた。しかしこの程度工夫の前にはどうということは無い。軽い軽い! この体のうちから沸き起こる熱を冷ますほどにもっと強く来い! 雨よ!
 数分後に到着したセルフ式のガソリンスタンドは、雨にも関わらず賑わっていた。3台待ちが出ている。僕はエンジンを切りセダンの後ろに並んだ。
 ルームミラー越しに運転手と目が合った。しばらく視線をかわした後で運転手は助手席の女性に何事か話しかけてた。助手席から後ろを振り返る女性と目が合う。女性は目を見開き、手を打つ。セダンが軽く揺れる。
 エンジンを切ってから、先ほどまで渦巻いていた熱が徐々に冷めて行くのを感じている。そして戻ってくる社会性。くたびれた原付に跨がった30がらみの男。スヌーピーのヘルメット、雨粒がびっしりと着いた眼鏡。濡れそぼった体。そして身につけたゴミ袋。風が吹くたびにカサカサと悲しそうな音を立てる。結局ずぶ濡れているではないか。
 数分前の熱気と高笑いが色褪せていく。僕の脳みそが無かったことにするための手続きをとり始めている。
 心の粗熱がほぼ取れかけた頃、前のセダンが給油を終えた。走り去るその窓が下がり、中年カップルがこちらを見る。僕は「そうだった忘れてた」と誰にとも無く呟き、襟ぐりからゴミ袋を裂いた。そしてズボンの尻ポケットにねじ込んだ。雨水がポケットを濡らす。
 そして気がつく。僕の胴体はほとんど濡れていないことに。しっかり役目を果たしてくれていたのだ! 僕は恥じた。冒険の中に身を置きながら、社会の目を気にしたことを強く恥じたのだ。 そして次の瞬間には再び戻る熱気の揺らめきを感じた。いけるぞ、何一つ間違えてはいなかったのだ。給油作業をてきぱきと済ませ、バイクに跨がった。
 ひさしの向こうの雨は、ひどく強くなっている。僕は口の端を持ち上げながら尻ポケットから裂けたゴミ袋を出して再び身にまとった。首元から裂いたためベストの様になってしまっているが構わない。
 バイクを走らせる。ゴミ袋がマントの様に舞い上がる。びしょ濡れて行こう! 雨粒を全身に受けながら今度は袖と下半身も作ろうと決意した。
「レインコートを買った方が早いって? そんなんじゃ全然冒険が足りないぜ」